悲劇のヒロインぶるのはもうやめろ

いつも自分の記録のためだけに書いている。


忙しい時期も抜けて9月は1番振り返ることが多い月で、転職して一年たって不毛なことからも自分から抜け出すことができて昨年は本当にたくさんのことがあった。


4月や12月1月も少しは振り返ることがあるが自分自身としては、様々なことがあった月で何があったか考えてしまう。


①まず転職

きっかけはちょっとしたこと

「お金がない、同い年に比べてこの給与は低いのでは?」

という将来に対しての不安でした。

一年前アパレルで働いており、大好きなブランドではあったものの…だんだん夢かわいい謎路線ばかりで自分から売るのが苦痛になっていた。全体の売り上げを前年と比べて見ても明らかに下がっていて店舗異動してからもしんどい気持ちが強かった。


マネージャーに退職する旨を告げ6月から活動し、7月半ば頃には内定をいただいた。(ちなみにこのブランドは8月で倒産がいきなり決まった)


転職エージェントを、初めて使い、自分では考えない職種をおすすめされ、トントンと決まった。


給与アップ、残業代でる、ボーナスあり、営業以外、IT系


でいろいろ受けてはいたが、IT系を受けてみて全く自分に合わないな…ということが気づけたことと、職務経歴書の書き方を教えてもらったため初めてエージェント使ってよかったなと思えた。

(内定出てからもこまめに連絡きていたが3ヶ月以内で辞めてしまわないかとか成績に関係あるんですかね?かなり優しい素敵なお姉さんでしたのでD○DAすごいって思ってた)


引越しを強要されないし、職場でまったり働ける場所で未経験に優しく運がよい配属になったと一年を通して思ったし、少し忙しくなって私服で茶髪でまつエクやネイル、カラフルな服装からビシッとスーツに変わって新鮮なことがたくさんでした。





②不毛なことから抜け出した


前回もそうだったけど転職して何ヶ月後か恋人ができるということがあった。


転職すると環境がガラッと変わるのと、タイミングでそのようなことが起こるのだと思う。


不毛なことっていうのは、ずっと好きなんだけど付き合えないということを繰り返していまして…これは自分に原因があるのはわかっているのに治せない、そんな「わかっているんだけど…」という「おめー!行動できてないってのはわかってないってことなんだよ!!!」って自問自答ばかりしていました。

自問自答時期に散々話を聞いてくれた友達には感謝しかありません。



転職をきっかけにいろいろあり、自分から一歩進もうという動き出しができるようになって、相手にも伝えることができて今の自分がいる。

いまだにアホみたいに憂鬱になることもたくさんあるけど、この頃の憂鬱な気持ちになることはないかな。


だいたい被害者面して何も解決しようとしない状況がよくなかったのだ、悲劇のヒロインぶるのはもうやめろ。



③これから

27歳になって、28歳になる自分を客観視してダサいことを選択しない大切さをより知った。収入に関してもそうだったけど、10年前からなにも成長していない自分であったら10年後の私が悲しむのだ。高校・大学選びを「もっと勉強しておけばよかった」と思わずにすんだのは、楽しく過ごす術があったからで、社会人になってからはもっと現実的である。


本当に自分のためだけに自分の幼少期について書くお話。




恋愛遍歴を書こうと思って自分を振り返ったら子どもの頃の記憶がありすぎて幼少期をずらずら書いてみた。

昔からのことなので、ちょっと自分をさかのぼってみた。



幼稚園 年長(東京から盛岡に引っ越した)

よくオーバーオールを公園の山のところですべりだいをしていて泥だらけにして怒られる。

幼稚園でこれから引っ越しする男の子がいきなり

「実は好きだった」と言われる。早生まれな私だったこともあり頭の回転がくそみそに悪く「へぇ〜」の返事のみ。どちらかというと家の近くの一緒によく遊ぶ男の子のほうが好きだった。

卒園式親に「足をぶらぶらさせて恥ずかしい!」と怒られ「アルバムもらったから作ろうよ」と親に言っても「あんたみたいな適当な頭じゃ作れない」と言われ断念。

(ちなみに3人兄弟末っ子なこともあるのか私のアルバムは一冊もありません。写真はある。)


盛岡時代の母親はずっとヒステリックであった。



小1

なぜか姉が通っていた私立の女子校にいた。

カトリックの学校で女の子だらけで軽いいじめを受けていたが、喘息持ちで休みがちであったためいじめをいじめと感じず(仲の良い友達もいた)のんびりと田舎の住宅地で過ごす。先生も優しかった。

親が共働きで貧乏であったのかズボラであったのかわからないが全てのライフラインが止まるという経験を6歳にして「やばい」と感じた。


休んだり、入院したりがあって学校に行きたいのに行けないもどかしさがあった。小1ってそうなんですよね…


風邪で家で1人で休んでいると(両親共に仕事)寂しすぎて友達のお母さんに電話してしまう。母に「恥ずかしいったらありゃしない!!」とブチ切れられる。そりゃ、そうだ。


親が全く教育に興味がないため、この頃国語でいつもてんやまるや小さいっなど使い方を全て間違え先生に直されてもわからずじまいであったし算数の時計もまっすぐなはりしかよめなかった。足し算引き算いまだに苦手です!!!


世の中のお父様お母様には言いたい!!!一年生の勉強ちょう!!!!だいじ!!!!


母が謎の音楽のでる浄水器(当時20万近く)を職場のお世話にってる人から買い夫婦喧嘩勃発。父は女子供わりと容赦なく殴る蹴る、どちらかというと蹴る人でこの日はひどかった記憶がいまだにある。


父は喘息でつらい私をパチンコに連れてって何時間も中に放置したりと今考えると恐ろしいんだけど、本当にパチンコばかりしていて日曜にパチンコ店に電話をかけたこともある。これあるある話かどうかわからないけど、子供にパチンコ店に電話をかけさせて「お父さんどこ?」って電話口で言わせるっていう技がある。母親も恐ろしい。

なので、私はギャンブルが全て嫌いである。勝手に好きでやってればいいけど、自分の恋人や家族が行うギャンブルは大嫌い。


あとバス通学だったのだが、毎回無銭乗車させられたことを私は両親に対して憎しみでしかない。250円(バスの代金まで覚えてるからな)を子供に毎回渡せず嫌な思いさせてんじゃねえよっていう。これ後々「母が勝手にしてた」ことだとわかる。母が仕事のおつかいで上司の子供には定期券買ってあげてたのに自分の子供には買ってあげないとか…信じられません。


ちょうど学年が上がるまえの私の誕生日ちょっと前くらいに夜逃げのように母の母、つまり祖母がいる茨城に子供だけて行き二年生をむかえる。母は父に限界を感じ離婚を考えたのだとかなんとか話していた。


小2

楽しかった。祖父母から勉強を教えてもらえるし、しっかり宿題をやって褒められる、友達もたくさんいて毎日遊ぶ。家が近いからふと遊びに行ける。この頃が1番初恋らしい初恋をした。


私が七五三をすませていなかったため、鹿嶋神宮にて行う。父がわざわざ茨城まできて写真を撮ってくれたのが嬉しかった。


小3

この七五三がきっかけであったのか、父と父方の祖父母と東京で暮らさないか?って話になり、引っ越すことになった。子供って親がいないと何もできないし逆らえないものなんだよな。


幼稚園の頃いたところに戻るわくわく感はあった。


それなりに楽しく過ごせたけど、東京の転勤族ですぐに友達が遠くに行ってしまうことや男の子たちは本当に苦手だった。プールなんて泳いだこともなかったからいろんな人にバカにされて私のプライドはズタズタだった。


しかも、小学生のどのくらい泳げるか帽子に星をはっていくんだけど初級の顔を水につけるなどが赤星で10メートル泳げるが緑星、25メートルで青星とその先も星がいろいろあって小3で赤星をつけてると聞こえるように悪口を言われる。


東京ってみんな習い事するじゃないですか、特に水泳。あの文化を廃止してほしい。


母に昔「水泳通いたい。ピアノやりたい」って言ったことあるがやらせてもらえなかった。ちなみにこの頃は、離婚はしてないものの母はいないため祖母に言わないといけないのである。祖母に「水泳通いたい」なんて言えるわけもなく自力でなんとかしようとする。


ちなみに小3から毎日学校プール公開の夏休み中通い自主的に猛特訓。その頃障がい者の補助できてくれてた先生にかなりお世話になり、顔に水をつけるのもこわくなくなった。


最終的には六年生で黄星のクロール平泳ぎ50メートルできるというところまで進み、緑や青でくすぶってた子たちより水泳はできるようになった。


冬に大もめの末、父母離婚。

これもまた母が勝手に私たち兄弟を茨城に行くと騙し盛岡の自分の新しい結婚相手に合わせる。まえの母の会社のくそみたいな女上司に無理やり私たち子供は説得させられる。私のみ反抗したがそのババア女上司から「あやのちゃんはおばちゃんと長い知り合いじゃないからよーくはわからないよね?」という意味不明なこと言っていた。

自分が経験したからわかるけど、小3でも大人の言ってることよーくわかります。


これ当たり前のことで、いきなり知らない素敵なお金持ちの人とお母さんが結婚するからいっしょについて行きなさい?ってわけわからん第三者に言われて子供でもはいそうですかって言うわけがない。


小4

この頃の担任の先生が大好きだった。いつも遊びを考えたり全員で遊べる日を確認したり、いろんなことをしたな…


「リトルスターズ」という学童の影絵クラブに所属する。楽しかったけど、私立受験で抜ける子が多く私立受験が憎かった。


兄の保護者会で嫌な目にあったため祖母が私の保護者会も出てくれなくなった…


小5、6

クラス替えがあって、女同士のイザコザが始まる。しかも中心人物だと思われていた。今思えばそうだったのかもしれない。このへんはなんともいえない。

担任の先生は覚えているけど、全くいろんな反省はしていない生意気な子だったなという記憶。この頃から物事を斜めに見るようになり、素直さが消えた。


昔の自分を正当化するつもりはないけど、しっかり親からの愛情を感じて育っていることそうではない子の差はこのぐらいの年齢から出てくるのでは?親が愛情をくれなかったわけではないことも知ってる。週一のお休みが少ないのにお父さんが一生懸命いろんなところへ連れて行ってくれたことも覚えている。(姉が不登校になってたのもあるが)少なくとも私はもっと褒めて認められたかったのだと思う。兄への注意や姉の心配ばかりでなく、私だけの特別な何かを見て欲しかったのだろう。



次は中高についてひたすら自分のための覚え書きをする。


ちなみにこの離婚した小3の冬から母と会う機会は全くありません。


カレーを作っていて思い出す

ブログを書いたことで一部から個人的に連絡をいただいたりした。


ある程度時が経って感じられるのは家族、親戚が泣いてたことを思い出して泣きそうになるということと納棺式の話をするだけで涙が溢れ出しそうなこと。


職場におおっぴらに忌引きとは話してなかったのですが、いろんな方からご挨拶をいただいた。わりと落ち着いた後でも具体的な内容を伝えようとすると泣き出しそうになり、かなり気をつける場面が多かった。


めそめそしてても仕方ないのもわかってはいるが、これからの生きている私を見守ってくれてるか祖母の側に祖父はいるのではないかなと勝手に思っている。


お休みをいただいてたため久しぶりにお会いした方々から「大丈夫ですか?」の言葉を聞いて「もうすっかり」という受け答えになった。


ふと先ほどカレーを作っていて、めったに料理を作らない私が祖父母に昔カレーを作ったことがあったな…ということを思い出して思いっきり涙があふれ出たので、まだまだ涙は枯れることはないがめそめそしていることもないのだなといった心境である。

薄情なのは私か…祖父を亡くして思ったことをかきなぐりました。


祖父が亡くなりまして、ここ数年全然会えていなかった。というより会いに行ってなかったというほうが正しいかもしれない。


祖父はここ何年か体調も悪く痴呆も酷く私の名前は覚えていない状態で(何故かふと姉の名前はつぶやく)様々な病気を併発し集中治療室に入っていたそうだ。

最後の病院も平日の17時から20時しか面会できず仕事が忙しいにかまけて行っていなかった。行こうと思えば行けたのだが私は逃げていたのだ。弱っている祖父を見たくなく、もう好きなゴルフをすることもなく好きなサスペンスを見ることもない祖父に気づくのが嫌だったのだ。なんて自分勝手であったのだろうか。


何故か眠れない夜だった。27日の深夜2時頃に亡くなったと連絡があり、ひっそり夜に泣いた。泣く資格も無い。実感もない。うすっぺらい私だ。


その次の日普通に仕事へ出勤したが、なにも私はしなくてよいのか心配になり家と父に電話したがお通夜と告別式の日程を聞きその日に休みを取ると約束をし特にすることもないから来なくてもよいと言われていた。

後日病院に来られないか?と言われたが突然すぎて仕事のバタバタも酷く突然は厳しいと伝えていた。お通夜と告別式のお休みを取ることにひっしであった。これも逃げていたのだろう。


途中ほとんど私の家系の方とは連絡を取らず消えた姉に連絡して、と父から言われ連絡をとったが姉からは「お疲れ様、頑張れ(^ー^)ノ」というラインの返事でなんなんだこの薄情な女は?と憤りを感じ電話をする気もなくなった。


お通夜当日、私はあまりにも実感がなかった。マンションの階は違うもののほとんど一緒に住んでいたのに数年会っていなかっただけで不思議な感覚であった。一緒に住んでいる恋人からは「俺だったらすっ飛んでいく」と言われ、本来ならばそうなのだろう…あぁ私は姉のことを薄情だなんて言えない。私も薄情であったのだ。実家について早々父からも「遅い、生前もっと会いにこい」と言われた。


納棺式で初めて祖父をみた。写真の中では含笑いでふっくらしていたが台に眠っているようにみえる本人は痩せこけていた。お化粧や足袋を履かせたりと納棺式がすすむ、親族のかた前へと言われるが動けず涙が止まらないのである。家族に涙なんてほとんど見せたことない。祖父が集中治療室に入ってからも全然顔を見せなかったから私が泣く資格なんて無いと思っていた。


納棺式で代わる代わる身につけるものを結んでいく。わたしはもう涙も鼻水も止まらなくてできるような状態ではなかった。けれど祖母から「結んであげて、じいちゃんのためにやってあげて」と言われて泣きながら右手に布をかぶせ固結びでまいた。この時に胸から熱いものがこみ上げてより涙が止まらなくなってしまった。


自分のことしか考えていなかったが、このとき納棺式にいた親族全員が泣いていたのである。

祖父のために何もできなかったことを悔やむのではなく、もうお互いに嫌味や言い合いできなくなってしまったことに対しての寂しい気持ちでの涙になっていった。


人はたくさんの"もしも"でいっぱいになる。特に亡くなった人についてそう思う、けれどそこを悔やんでも仕方ないのである。祖父とはいろんなことがあった、どちらかというとちょっとしたツッコミやどうでもよい話し合いが多く私がアイスを食べると張り合うように食べたり絶対怒鳴ったりはしない人でもう会えない気持ちがわたしの中の言い表せない感情でこみ上げてくる。



92歳まで兄弟の中で1番長生きした祖父。天国があるかどうかわからないけれども、もしあるのであればゴルフをしながらビデオでサスペンスを見るのかなぁなんて思う。四十九日までは半年ぶりの自宅でゆっくりしてください。


この気持ちを書きなぐりたかっただけなのでまとめも何もないのですが、感じたことを忘れたくないと思いお通夜までの昨日に書きました。


告別式、火葬を終えてまだたくさんの思いがありますが神経質な祖母にいろんなことを説教されながらへへへって笑っている祖父を私はきっとずっと覚えているでしょう。


これからはあちらの世界から私たちを見守っていてください。