薄情なのは私か…祖父を亡くして思ったことをかきなぐりました。


祖父が亡くなりまして、ここ数年全然会えていなかった。というより会いに行ってなかったというほうが正しいかもしれない。


祖父はここ何年か体調も悪く痴呆も酷く私の名前は覚えていない状態で(何故かふと姉の名前はつぶやく)様々な病気を併発し集中治療室に入っていたそうだ。

最後の病院も平日の17時から20時しか面会できず仕事が忙しいにかまけて行っていなかった。行こうと思えば行けたのだが私は逃げていたのだ。弱っている祖父を見たくなく、もう好きなゴルフをすることもなく好きなサスペンスを見ることもない祖父に気づくのが嫌だったのだ。なんて自分勝手であったのだろうか。


何故か眠れない夜だった。27日の深夜2時頃に亡くなったと連絡があり、ひっそり夜に泣いた。泣く資格も無い。実感もない。うすっぺらい私だ。


その次の日普通に仕事へ出勤したが、なにも私はしなくてよいのか心配になり家と父に電話したがお通夜と告別式の日程を聞きその日に休みを取ると約束をし特にすることもないから来なくてもよいと言われていた。

後日病院に来られないか?と言われたが突然すぎて仕事のバタバタも酷く突然は厳しいと伝えていた。お通夜と告別式のお休みを取ることにひっしであった。これも逃げていたのだろう。


途中ほとんど私の家系の方とは連絡を取らず消えた姉に連絡して、と父から言われ連絡をとったが姉からは「お疲れ様、頑張れ(^ー^)ノ」というラインの返事でなんなんだこの薄情な女は?と憤りを感じ電話をする気もなくなった。


お通夜当日、私はあまりにも実感がなかった。マンションの階は違うもののほとんど一緒に住んでいたのに数年会っていなかっただけで不思議な感覚であった。一緒に住んでいる恋人からは「俺だったらすっ飛んでいく」と言われ、本来ならばそうなのだろう…あぁ私は姉のことを薄情だなんて言えない。私も薄情であったのだ。実家について早々父からも「遅い、生前もっと会いにこい」と言われた。


納棺式で初めて祖父をみた。写真の中では含笑いでふっくらしていたが台に眠っているようにみえる本人は痩せこけていた。お化粧や足袋を履かせたりと納棺式がすすむ、親族のかた前へと言われるが動けず涙が止まらないのである。家族に涙なんてほとんど見せたことない。祖父が集中治療室に入ってからも全然顔を見せなかったから私が泣く資格なんて無いと思っていた。


納棺式で代わる代わる身につけるものを結んでいく。わたしはもう涙も鼻水も止まらなくてできるような状態ではなかった。けれど祖母から「結んであげて、じいちゃんのためにやってあげて」と言われて泣きながら右手に布をかぶせ固結びでまいた。この時に胸から熱いものがこみ上げてより涙が止まらなくなってしまった。


自分のことしか考えていなかったが、このとき納棺式にいた親族全員が泣いていたのである。

祖父のために何もできなかったことを悔やむのではなく、もうお互いに嫌味や言い合いできなくなってしまったことに対しての寂しい気持ちでの涙になっていった。


人はたくさんの"もしも"でいっぱいになる。特に亡くなった人についてそう思う、けれどそこを悔やんでも仕方ないのである。祖父とはいろんなことがあった、どちらかというとちょっとしたツッコミやどうでもよい話し合いが多く私がアイスを食べると張り合うように食べたり絶対怒鳴ったりはしない人でもう会えない気持ちがわたしの中の言い表せない感情でこみ上げてくる。



92歳まで兄弟の中で1番長生きした祖父。天国があるかどうかわからないけれども、もしあるのであればゴルフをしながらビデオでサスペンスを見るのかなぁなんて思う。四十九日までは半年ぶりの自宅でゆっくりしてください。


この気持ちを書きなぐりたかっただけなのでまとめも何もないのですが、感じたことを忘れたくないと思いお通夜までの昨日に書きました。


告別式、火葬を終えてまだたくさんの思いがありますが神経質な祖母にいろんなことを説教されながらへへへって笑っている祖父を私はきっとずっと覚えているでしょう。


これからはあちらの世界から私たちを見守っていてください。