本当に自分のためだけに自分の幼少期について書くお話。




恋愛遍歴を書こうと思って自分を振り返ったら子どもの頃の記憶がありすぎて幼少期をずらずら書いてみた。

昔からのことなので、ちょっと自分をさかのぼってみた。



幼稚園 年長(東京から盛岡に引っ越した)

よくオーバーオールを公園の山のところですべりだいをしていて泥だらけにして怒られる。

幼稚園でこれから引っ越しする男の子がいきなり

「実は好きだった」と言われる。早生まれな私だったこともあり頭の回転がくそみそに悪く「へぇ〜」の返事のみ。どちらかというと家の近くの一緒によく遊ぶ男の子のほうが好きだった。

卒園式親に「足をぶらぶらさせて恥ずかしい!」と怒られ「アルバムもらったから作ろうよ」と親に言っても「あんたみたいな適当な頭じゃ作れない」と言われ断念。

(ちなみに3人兄弟末っ子なこともあるのか私のアルバムは一冊もありません。写真はある。)


盛岡時代の母親はずっとヒステリックであった。



小1

なぜか姉が通っていた私立の女子校にいた。

カトリックの学校で女の子だらけで軽いいじめを受けていたが、喘息持ちで休みがちであったためいじめをいじめと感じず(仲の良い友達もいた)のんびりと田舎の住宅地で過ごす。先生も優しかった。

親が共働きで貧乏であったのかズボラであったのかわからないが全てのライフラインが止まるという経験を6歳にして「やばい」と感じた。


休んだり、入院したりがあって学校に行きたいのに行けないもどかしさがあった。小1ってそうなんですよね…


風邪で家で1人で休んでいると(両親共に仕事)寂しすぎて友達のお母さんに電話してしまう。母に「恥ずかしいったらありゃしない!!」とブチ切れられる。そりゃ、そうだ。


親が全く教育に興味がないため、この頃国語でいつもてんやまるや小さいっなど使い方を全て間違え先生に直されてもわからずじまいであったし算数の時計もまっすぐなはりしかよめなかった。足し算引き算いまだに苦手です!!!


世の中のお父様お母様には言いたい!!!一年生の勉強ちょう!!!!だいじ!!!!


母が謎の音楽のでる浄水器(当時20万近く)を職場のお世話にってる人から買い夫婦喧嘩勃発。父は女子供わりと容赦なく殴る蹴る、どちらかというと蹴る人でこの日はひどかった記憶がいまだにある。


父は喘息でつらい私をパチンコに連れてって何時間も中に放置したりと今考えると恐ろしいんだけど、本当にパチンコばかりしていて日曜にパチンコ店に電話をかけたこともある。これあるある話かどうかわからないけど、子供にパチンコ店に電話をかけさせて「お父さんどこ?」って電話口で言わせるっていう技がある。母親も恐ろしい。

なので、私はギャンブルが全て嫌いである。勝手に好きでやってればいいけど、自分の恋人や家族が行うギャンブルは大嫌い。


あとバス通学だったのだが、毎回無銭乗車させられたことを私は両親に対して憎しみでしかない。250円(バスの代金まで覚えてるからな)を子供に毎回渡せず嫌な思いさせてんじゃねえよっていう。これ後々「母が勝手にしてた」ことだとわかる。母が仕事のおつかいで上司の子供には定期券買ってあげてたのに自分の子供には買ってあげないとか…信じられません。


ちょうど学年が上がるまえの私の誕生日ちょっと前くらいに夜逃げのように母の母、つまり祖母がいる茨城に子供だけて行き二年生をむかえる。母は父に限界を感じ離婚を考えたのだとかなんとか話していた。


小2

楽しかった。祖父母から勉強を教えてもらえるし、しっかり宿題をやって褒められる、友達もたくさんいて毎日遊ぶ。家が近いからふと遊びに行ける。この頃が1番初恋らしい初恋をした。


私が七五三をすませていなかったため、鹿嶋神宮にて行う。父がわざわざ茨城まできて写真を撮ってくれたのが嬉しかった。


小3

この七五三がきっかけであったのか、父と父方の祖父母と東京で暮らさないか?って話になり、引っ越すことになった。子供って親がいないと何もできないし逆らえないものなんだよな。


幼稚園の頃いたところに戻るわくわく感はあった。


それなりに楽しく過ごせたけど、東京の転勤族ですぐに友達が遠くに行ってしまうことや男の子たちは本当に苦手だった。プールなんて泳いだこともなかったからいろんな人にバカにされて私のプライドはズタズタだった。


しかも、小学生のどのくらい泳げるか帽子に星をはっていくんだけど初級の顔を水につけるなどが赤星で10メートル泳げるが緑星、25メートルで青星とその先も星がいろいろあって小3で赤星をつけてると聞こえるように悪口を言われる。


東京ってみんな習い事するじゃないですか、特に水泳。あの文化を廃止してほしい。


母に昔「水泳通いたい。ピアノやりたい」って言ったことあるがやらせてもらえなかった。ちなみにこの頃は、離婚はしてないものの母はいないため祖母に言わないといけないのである。祖母に「水泳通いたい」なんて言えるわけもなく自力でなんとかしようとする。


ちなみに小3から毎日学校プール公開の夏休み中通い自主的に猛特訓。その頃障がい者の補助できてくれてた先生にかなりお世話になり、顔に水をつけるのもこわくなくなった。


最終的には六年生で黄星のクロール平泳ぎ50メートルできるというところまで進み、緑や青でくすぶってた子たちより水泳はできるようになった。


冬に大もめの末、父母離婚。

これもまた母が勝手に私たち兄弟を茨城に行くと騙し盛岡の自分の新しい結婚相手に合わせる。まえの母の会社のくそみたいな女上司に無理やり私たち子供は説得させられる。私のみ反抗したがそのババア女上司から「あやのちゃんはおばちゃんと長い知り合いじゃないからよーくはわからないよね?」という意味不明なこと言っていた。

自分が経験したからわかるけど、小3でも大人の言ってることよーくわかります。


これ当たり前のことで、いきなり知らない素敵なお金持ちの人とお母さんが結婚するからいっしょについて行きなさい?ってわけわからん第三者に言われて子供でもはいそうですかって言うわけがない。


小4

この頃の担任の先生が大好きだった。いつも遊びを考えたり全員で遊べる日を確認したり、いろんなことをしたな…


「リトルスターズ」という学童の影絵クラブに所属する。楽しかったけど、私立受験で抜ける子が多く私立受験が憎かった。


兄の保護者会で嫌な目にあったため祖母が私の保護者会も出てくれなくなった…


小5、6

クラス替えがあって、女同士のイザコザが始まる。しかも中心人物だと思われていた。今思えばそうだったのかもしれない。このへんはなんともいえない。

担任の先生は覚えているけど、全くいろんな反省はしていない生意気な子だったなという記憶。この頃から物事を斜めに見るようになり、素直さが消えた。


昔の自分を正当化するつもりはないけど、しっかり親からの愛情を感じて育っていることそうではない子の差はこのぐらいの年齢から出てくるのでは?親が愛情をくれなかったわけではないことも知ってる。週一のお休みが少ないのにお父さんが一生懸命いろんなところへ連れて行ってくれたことも覚えている。(姉が不登校になってたのもあるが)少なくとも私はもっと褒めて認められたかったのだと思う。兄への注意や姉の心配ばかりでなく、私だけの特別な何かを見て欲しかったのだろう。



次は中高についてひたすら自分のための覚え書きをする。


ちなみにこの離婚した小3の冬から母と会う機会は全くありません。